J 「人情を捨てて神情へ、そこから和楽の道が開けてくる」

昭和五十七年三月五日 朝の御理解

x御理解 第七十九節 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所           と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八           銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れる           から、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働           くがよい。」


 この御教えは、ま、商売に対するですけれども、結局商売人に対して算盤を抜きにした商売をせよという事だと思うんですよね。
 算盤を抜きにした商売、いくら利がかかっとって、いくら儲からなければ生活が立ち行かんと算盤をはじいてからのものではない。もう、いよいよ私は、人情から神情をもってする商売。これは教祖様が十銭のものは八銭で売れといわれるから売るというところから、ね。これを神情で受けていく時に神様にも通じるお客様にも通じるとい事になりましょう。
 なかなか商売人、算盤抜きで商売せろという事はやっぱり至難な事です。難しい事です、ね。けれども、教祖は結局、教祖の御教えというのは、まあ、合楽理念でいういわゆる真髄をこのように、まあ、わかりやすく説いておられるのですよね。
 今朝から私は、いつもより三十分くらい早く目覚ましのおかげを頂きましたから、あちらの御神前でまあ、御祈念をするともなしに・・・・っとまあ、瞑想にまあ、ふけると申しますかね、瞑想にふけっておりました。そしたら、あのう、z『円満具足』という事を頂いた。確か、仏教の教えの言葉の中にあるのじゃないでしょうか、円満具足と。なるほど、そう頂いてみると私が御神前で瞑想にふけっておるその心の状態というものは、暑いもなからなければ寒いもない。痛いもなからなければ痒いもない もう本当に不安もなからなければ心配もない。只、あるものは喜びばっかり。
 そんなら願いなどというものがないかというと、願いはその大願をもっておりますけれども、それは私の願いではなくて神願である。神願成就の為の心だけしかない。 私は、その円満具足という事を頂いて、ははあ、こういう心を円満具足というのだな、といふうに思ったんです。心が足ろうてくる、ね。
 暑くもなからなければ寒くもない。痛いもなからなければ痒いもない。そういう心の足ろうた心。そういう心で、いうならば人を祈り世を、社会の事を願うという。
 神様の願いがいよいよ成就していく事の、手にも足にもならせて頂きたい。その念願があるだけである。私はどうしても自分の心が昨日は神愛会でございましたから皆先生方集まってそして研修させて頂いた中に、今度あの箱崎教会の親奥様が話しておられましたが、今度報徳祭のお掃除の時に草鞋が天井から落ちて来たという事。
 本当に不思議といえば不思議、神ながらといえば神ながら、いつの時代からかそういう神様の願いが箱崎教会にかけられてある。どうぞひとつ和楽路会という箱崎教会の信心研修日になっておるわけですけれども、そういう本当に、和楽の路が開けてくるような心の状態を頂いてくれよ、おかげ受けてくれよ、それには草鞋履の一生懸命の信心がいるんだぞ、という事なんです。その事を発表しておられました。その時に私が頂くとがね、z草鞋ではなくて昔、「足なか」というですかねえ、藁でやっぱ作った草履なんです。草鞋のような形をしている草履。草鞋というのはこうやってひもがついててね、こうきちっと、ほほう、本当にこれは箱崎教会だけの事ではない。そこに連なるところの先生方、全部の上にもこれは言える事だなあと思った事でございますね。草鞋履とは、いうならば和楽の道をいよいよ極める為にはやっぱ一生懸命にならなければいけない。
 そして私が今朝瞑想さして頂いておる時に感じておった本当に痛いもなからなければ痒いもない。勿論、不平もなからなければ不足もない。只、有り難いだけの、いうなら思い。願いと言えば私の私的な小さい願いというものではなくて、ね、どこまでも神願、神の願い。神願成就の事だけが心の中にあるだけである。
 ははあ、こういう状態を和楽の路、和楽の心であろう。同時にね、円満具足と仏教的言葉でいうたらそういう事をいうのであろうと思いました。
 だからお互いがねえ、いわゆるその円満具足の心うめざさなければ駄目なんです。 それにはね、いうなら、和楽の路は一生懸命にならなければ駄目なんです、ね。
 いかにも一生懸命のようだけれども、いうならば、神様の目からご覧になると和楽草鞋を履いとるのじゃなくて藁草履を履いとる程度のところじゃなかろうか、ね。 そういう、いうならば、自分の心にその不安はない、心配はないといったような、あるものは喜びだけ、そして願いがないじゃない、ある。けどもそれは神願成就の願いだけである。神様の願いを願いとする願いだけである。まあ、いうならば、人が助かる事さえ出来ればの精神である、ね。そういう願いを私共の心の中にも自分が不安でたまらん、心配でたまらん、腹が立ってこたえんといったような心の状態で、そういう高度の事を願ったところで神様には私は通じないと思うんです、ね。
 どうでもその和楽の路、そういう心の状態になる時に私は、お商売をさせて頂く者が本当に算盤を置いて、商売にかかられる。いうなら、お取次をさせて頂く先生方がね、人情を捨てて、いうならば神情人筋でお取次がでける、ね。
 商売人が算盤を置くように、いうなら難しい、ね。
 神情、人情でいきますとやっぱり不安でもあり、心配になる事もいくらもある。けれども、神情をもってそれを頂くと、不安も心配もなくなってくる。で、そういう心の状態が、なら、これを商売人とかお取次をなさる先生方だけの事じゃない。
 信者一人一人の上にも教えを行ずるという事。いうなら、合楽理念を実験実証するという事は本気で実験実証という事はそこに商売人が、算盤を置いて商売にかかるよな、ま、いうならば、ある意味での難しさがやっぱりあるんだ、と。
 そしてそれを、なら、人情を切り捨てて、ね、神情にならせて頂くとそれが有り難く楽に、そして一心発起さしてもろうたら出来るという事であります、ね。
 先ずはその和楽の路を頂く事の為に、なら、まだ々一生懸命がたらん。草鞋履でなくて、藁で作った草履ばきのようなものである。これでは一生懸命とはいえないというわけなんです。
 今日私、この御理解から教祖様の十銭のものは八銭で売れと言われるから、又、売り場、買い場を大切にせろと言われるからするというところから、もうひとつ越えてそれが信心させて頂く者としては当然の事として出来るような心の状態、いわゆる、神情である。そうせずにはおられない心である、ね。それにはやっぱり商売人が算盤を置いての商売、ね。お道の信心をさせて頂く者がいよいよ、ね、人力に見切りをつけて、ね、いわゆる神力にすがれ、人力自ずから湧くと言われる、ね。人力をふり捨ててね神力一つにすがっていく。そこから生まれる和楽の路。
 そこまでの過程が私は、本気で一生懸命草鞋履きの信心をしなければ頂けない事だと思います、ね。一生懸命果して本当に草鞋履きかどうか、ね、もひとつ確かめて、そして自分の心の中にです、今日私が、一時ではありましたけれども、三十分余りの御神前で瞑想にふけっておる時の心の状態というものは、考えてみれば、考えてみるほど、ね、心にかからんという事がない事ではないのです。御信者さんのいろんな難儀な問題を、いうならば、お取次さしてもらいよる。
 ああ、あの人が、この人があんなに苦しんでおる。けれどもそれはね、ま、よくよく考えてみると神愛なのだから、ね、まあ、いうならば、ま、ちょっとひっかかるところもある事その事に御礼申し上げるという事、ね。
 ラムネを飲むのに、あの玉がひっかかるところがないと、それこそ、あんまりひっかかるところもなあにもないとグ-ッと行き過ぎる。なら、私が言う思ういろいろ様々なね、不平はない、不足はない。痛いも痒いもないというその心の中にもね、ひっかかるところがないのじゃない。けども、ひっかかる事その事を有り難いと御礼申し上げてるだけである、ね。
 そういう、いうならば、心の状態で、ね、それこそ神願成就の願いを立てる。それはいうならば、人が助かる事さえ出来ればの精神。これは誰でも言う金光教の信者が皆が、この方の道は人が助かる事さえ出来ればとこう。
 なら、助かる為の神情というのは、商売人が教祖の御教えを行じ徹して、算盤を抜きにしてのお商売がでけるような商売をしたら、もう絶対繁盛でしょうに、取次者自体が人情を捨てて神情一本で、そして自分の心の中にどういう中にあっても有り難いという一念しかないというような心でお取次をさしてもらうなら、いよいよ人の助かる世の光ともなる事が出来るというふうに思う、ね。
 そりゃまあ、最高一つの目的ですけれども、ね。そういう高度なところに目的を置いておかんと一生懸命が出てまいりません、ね。草鞋履きになれません。草鞋履きから草鞋履きの信心、そこから和楽の路は開けて来る、ね。
 そこには、いうならば、円満具足であるの心の状態にね、人間の幸福の条件が、いうなら足ろうてくるというてもいいでしょう。そういうおかげを頂きたいですね。
                                 どうぞ。